食と住に深く関わる企業であるクリナップは、現代における“食の大切さや役割”を、皆さまと共に見つめ直すことが大切だと考え、生活研究部門である「おいしい暮らし研究所」が中心となり、聖徳大学様、武庫川女子大学様のご協力のもと「キッチンから笑顔をつくる料理アカデミー」を企画、提供してまいりました。
ここでは、多彩な講師の方からいただいた貴重なご講義や実習の内容をお届けします。
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<食の役割>講義編 講師:室田 洋子(元聖徳大学教授) 人格心理学、臨床心理学担当。臨床心理士。 全国保育士会、全国保育協議会等で、保育の中の食育の指導委員。 (平成24年3月 講座実施時) |
今日の食の状況は、放っておくと外食にものすごい勢いで進んで行っていますね。いくらでも“コショク”につながっていきます。私は 20 年くらい前から“KFD”という方法で、家族のコミュニケーションの質の調査を全国さまざまな県で行ってきました。家族のつながりの状態を調べるんです。
“KFD”とはどんなものかというと、“Kinetic Family Drawings”というドイツで編み出された技法で、家族のそれぞれが何かを している様子を気軽に絵に描いてもらうという、とても簡単なものです。これを見ていくと、家族が食事をしている絵がかなり多く、半分以上を占めていたんです。であれば、ということで私は室田式にアレンジして「いつもの家族の食事の様子を描いて」というメッセージを出すことにしました。
この20年で、描かれる絵の傾向が大きく変わってきました。それは“コショク”に関するものです。
20年前のコショクは、“孤食”でした。端っこに縮こまった1人を描いて「おいしくない」っていうような絵。漫画の吹き出しみたいなのものを描いて「・・・・」って。この子は長い間、1人で食べていたんですね。こういうのを、まさに“孤食”と呼んだんです。「寂しいよ」「つまらないよ」「味気ないよ」「いたたまれないよ」っていう心が表されているんですね。
それがここ数年変わってきています。どういう風に変わってきているか? 同じ1人の食事を描いているのですが、テーブルの真ん中に大きく描かれていて、嬉しそうにニコニコしながら、テレビのあるところでご機嫌な様子で食べているんです。テレビの中ではタレントが何かしているのを描いています。ちっともしょんぼりしていません。「食事は1人がいいよねー」「食事は1人でするもんだ」「誰かと食べるのは疲れるわね」となってきたんです。だから大きな体でニコニコ食べている。そして好きなものだけを食べている。こういう食卓の絵を描いてくる。子どもたちが変化してきたんです。
調査の対象者は小学校の4〜6年生にしています。なぜかというと、中学生になると理想的な絵を描いてくるからです。よくよく見るとポスターのような。それから、小学校3年生以下や幼稚園も含めてやってみると、まだぶきっちょです。心を表現するには、まだちょっと技術的に足りない。小学校4〜6年生だと、そのままを描いてきてくれる。家族の状態をよく掴むことができているので、その辺を対象にしています。
申し上げたいのは、“コショク化”が“孤食”から“個食”に変わったということなんです。「食事はみんなでするのが当たり前なのにどうして?」と思っていたのは孤独の“孤” だったわけで、それに個人の“個”が使われるようになったのは、いつでも、どこでも、 どのようにでも、好きなように、好きな時間に、自分の都合で食べていいんですよ、という自分の都合で食べる食事が一番ごきげんですよ、という生活状態に変わっていることを意味しています。
関わり合いはわずらわしく、会話を楽しめない。相手とのコミュニケーションに緊張する、そして疲れる。このような子どもたちが増えているということは、コミュニケーション能力が低下しているということですね。人の気持ちが分からない、人に自分のことを伝えられない、分かるように伝えるようとする力が落ちた、ということになってきています。それとこの臨床的な活動とが重なってきます。なんでこんなにいじめられ、なんでこんな省かれちゃったような被害感を持つ子どもたちが増えてしまったのか。これらはみんな一緒なんですね。
その一方で、いざ言うとなったら徹底的に言う、という傾向もあります。エスカレートすると、相手が死ぬまで攻撃し続ける。相手の底意というものを読み取ることができないほど、ぶきっちょになってしまったんですね。犬の喧嘩だって、しっぽを下げたり耳を垂らしたり、“まいった”というしぐさが出れば、それ以上攻撃しないですよね。人間の子どもの対人能力が低くなっている場合には、相手が“まいった”と言っていても、自分の怒りの感情を発散するだけで逆上してしまうということがあります。残酷な事件もときに起こってしまいます。
相手からのメッセージを読み取る力というのは、すごく大事なことだと思います。「言ってくれないから分からないじゃない」ってことでは、あまりにも浅いということですね。言葉で言う前に目を伏せたとか、視線をそらせたとか、うなだれたとか、下位チャネルと言いますけど、いろいろな表情とか目の動き、しぐさ、 体の動きとか、こんなものがメッセージになるんです。それをうまくキャッチしてそして返す。この力が育っていないと、対人関係は全部説明しなくちゃいけない。
「面と向かうとうまく伝えられないから」と目の前にいる相手にもメールを打っている人が最近多いですね。言葉で伝えられないから。こうなるとどんどん携帯依存になってしまう。やっぱり人は、言葉とまなざしとしぐさと表情で自分の感情や考えを伝え合うという、このことによって文化的行動が非常に質のいいものになってくると私は考えていますので、この力を磨く場所、それが食卓ですよ、ということを申し上げています。
食卓ってすごい場所なんです。家族の食卓や仲間内の食卓というのは、その人が、相手が立派なときだけ会食を持つわけではないですよね。嬉しいときだけでなくて、しょげたときや失意のときにも「あなたのことが大事ですよ」というメッセージが伝わる場所が食卓なんです。
「もういいよ、言いたくないし」というようなとき、お母さんは黙ってその人が一番好きな食べ物を出す。それから一番大きなデザートのいちごを置いておくでしょう?「今は言いたくないんだ。だけどうちの息子だよ。大事だよ」っていうときに、もうひとついちごをのせるだけでも、「お母さんは分かってくれた」ってなります。
それから、上手く喋るきっかけがつくれない場合というのもありますね。言い出すきっかけがない。こういうときに、何か手を動かして、同じ場所で同じようなことをやっていると、余計なことを喋り始めるんですね。それも本音なんです。だから一緒に動くってことはすごく大事なんです。
たとえば相手が胸に一物あるんじゃないかという場面に出くわしたときに、何でもいいんですが、コロッケや餃子のように手順が間にいくつもあるような食べ物を一緒につくります。餃子ならすごく多めに具材を用意して、餃子の皮を3袋くらい、90個くらいつくると心が開けるチャンスが訪れます。
「あなたの好きな餃子をつくるから手伝ってくれる?」と言って、一緒に具を包むんです。「やっといてね!」じゃないんですね。黙々と包んでいるうちに、大きなお皿にいっぱいになってきますね。すると次第に心が流れ始めます。手は餃子を包んでいますが、相手が話しかけてきたら相づちを打って共感するだけでいいんです。
「何が起こっているか分からないけれど、嫌なことが起こったらしいね。それをお母さんは察知していたよ」って、それだけでいいんです。それ以上になって、「もう聞き捨てならないからあちらのお宅に電話するわ」「学校に話してみるから、明日早速出かけてみるわ」ってなると、子どもは「いい、いい」って嫌がります。そうではなくて、共感するレベルでいいんです。心の栓を引っこ抜くと水が流れ出します。流れ出すと、なんとか自分でやれそうな気分になってくる。ここが大事なんです。
共感する、共有する、心を込めて聞く、傾聴する、尊重する、受容する、などという言葉をカウンセリングでは使いますが、そういう難しい言葉を使わなくても、“なんか栓を抜いちゃった”と、“つながった”と感じられることが大きいんです。
「頑張ってね!」とか「しっかりね!」と、けしかけるようなことをするのではなくて、「なんでも一生懸命やってるんだよね」ということが伝わればいいんです。こういうことは生活の中で無数にあるので、そのためにも家庭の食卓では、手の込んだ工程の家族の定番料理をいくつか持っている必要があると思います。野菜炒めのような簡単なものではなく、何かを包んだりするような、同じ空間の中でやることがいっぱいあるような食べ物をいくつか用意していただいて、何かというと「あれ、つくるね」と言う。買ったものだとちょっと味が違う、そのような食べ物が、家族の中のつながりをもう一度回復するための大きな力となってくれます。
食卓の意義は、“共有”なんです。同じものを食べると、同じだって思えるんです。“コショク”がいけないのは、バラバラに食べることです。食べるものもバラバラ。「あれ美味しかったね」という共有がないんですね。それから食べる時間がバラバラでしょ。そして食べる場所もバラバラ。私が調査の中で気に入った食事風景を聞いたら、“布団の中”という答えがありました。それは楽かもしれないですけど、お作法とか言ってる場合ではないですね。箸の持ち方とかいう以前の問題。さらに進むと「手づかみで何が悪いの?」「1ヵ月毎日ロールケーキで何が悪いの?」となってしまう。
あるとき、朝ご飯で食べたものを使い捨てカメラで写真を撮ってもらって、それを1か月集めてもらうというのをフジテレビの方と一緒に協力して調査したのですが、毎日毎日ロールケーキを2切れずつとコーラという人がいました。「何でしょう?」って思いますよね。味噌汁もご飯も何もない。私が言う普通の食べ物っていうのは、その人の顔を見てつくるものです。その人のため、その人と食べようと思ってつくるもの。買ってきたものをドンと置くということではないんですね。その都度つくる。そして食べる。相手がいること、そして会話があること、気配りとお作法があること。普通のことですね。食べ物は代謝物じゃないんです。
家族の食卓。それは安い材料でつくられています。安い材料というのは季節のものなんです。一番旬のものは安いですが、旬を外れると高いものになります。旬というほどではなくても、たくさん出回っているものはおいしいですね。もうちょっと進んでいる方は、お庭の端でお野菜をつくられているでしょう。とってもおいしいですよね。私もつくります。ブロッコリーをつくっています。空豆も育ってきています。抜いたばかりの大根は本当に甘いですよね。タマネギだって、ナスだって、キュウリだって、なんとかできるんです。そうやってできたものは出回っているものより大切でおいしい。大切にいただきます。愛情なんです。こういう野菜は、小さな子でも生でバリバリ食べるんです。「野菜が必要だから」なんて言わなくても、食べるんですね。
よくよく見てみると、一番立派なトマトには、夏、カブトムシがいるんです。私たちの食べ物であると同時に、一緒に住んでいる虫たちも、これは自分のトマトだって思っているんだと思います。人間だけがでしゃばらないで、自然のさまざまな生き物と食べ物を分かつという、このことができたらちょっと面白い感動が生まれると思います。殺虫剤など使わなければ、虫が寄ってきて花がいっぱい咲くし、いっぱい食べ物がつくれるんです。それを日本の人たちは、買う生活に慣れてしまい、外国から買ってくるものが正しいと信じてしまっている。おかしいことだと思います。
「自分が食べるものくらい、自分でつくってみたら?」というのが私の思いです。曲がった大根も、二本足の大根も大事にいただきます。採れたてのニンジンがとてもいいにおいがするということも分かるし、無駄にしなくなりますね。採れたてはどれもおいしい。これをみんなで育てて、みんなで収穫して、みんなで調理して…、これはもう全く粗末なものではないですよね。材料は野菜だけかもしれないけれど、とても豊かです。こういう感覚を日本人は知っていたはずなんですが、いまこそ、これを思い出す心を持つ必要があると私は思っています。
この間、すごくおいしいお寿司をいただきました。生まれて初めて食べたのですが、お野菜のお寿司なんです。焼いたおネギが寿司ダネにのっているんです。ナスのお寿司、大根のお寿司、いろいろなお野菜が寿司ダネにのっているんです。農薬を使わないでつくられた野菜には甘くて味わいがあるということを、改めて発見いたしました。
心を育てる食卓、そして家族をつなぐ食卓、人をつなぐ食卓、心を癒す食卓、心を立て直す食卓。心を育てていく力は食卓状況にあること。そして食べ物は、いつも我が家のつくり方を大事にして、できるだけ添加物や農薬が使われていない、インスタントものや、買ってきたものを並べるだけではない食卓を心がけることで、家族の機能は戻ってくると私は思います。
最後に1つだけ申し上げます。それは“Basic Trust”ということについてです。“基本的信頼”という、アメリカの心理学者エリクソンの言葉ですが、これと食がつながってくると私は思います。その筆頭は「おっぱい」です。初めてのお食事っておっぱいでしょう? そのときにお母さんたちはどのようなものを赤ちゃんに与えているか、ということです。 おっぱいを与えるお母さんが、「おいしいね」「よく飲むね」って話しかけてあげるとよく飲みますが、「もっとしっかり飲みなさい」とか、「200ccは飲んで欲しいのに、120ccで終わったわよ!」って、ほっぺを叩いて鼻をつまんで押し込めたりすると、赤ちゃんはもどしてしまいます。
子どものそのままを引き受けて、飲んでも飲まなくても「かしこいね。美しいね」というメッセージを与えれば、その中で子どもはだんだん「僕は僕のままでいいんだな」という感覚を得てきます。「この世に生まれてきたのはよかった」という実感ですね。「生まれたら反射機能を盛んにして、ごくごく飲んで、ピチピチとしたつややかな肌であるべきである」だなんて、赤ちゃんは考えていないわけですね。お母さんたちも、ひよひよの赤ちゃんでもうちの子がかわいいと思いますし、ぷくぷくの赤ちゃんでもうちの子は美しいと思いますね。それぞれお母さんたちは、最高の赤ん坊だと思っています。これを伝える、一番の大きなものが食なんです。おっぱいなんです。抱っこの抱かれ心地も含めて、ここに人格形成の根っこがあるんです。
「僕、喜ばれてるんだよね」
「お母さんだけじゃなくて、ベビーカーで行くと、誰か覗く人は みんなニコってするよ。僕を見たらみんな笑うに決まってるんだ」
そうやって、世界から受け入れられているという実感を子ども達は確認していくんです。そして、もっと大きな年齢になって心が砕けそうになったときにも、
「ご飯を食べてくれてありがとう」
「ここにいてご飯食べていいんだからね」
と言ってくれる家族があれば、赤ちゃんが自分をスタートさせたように、もう一度心を戻すことができます。それが“Basic trust”ということです。お母さんと赤ちゃんのおっぱいの関係は、人をもう一度つなぎ直す大きな切り口となるのです。